障害者の就業を考える
障害者には大きく3つの区分があるらしい。知的障害者、身体障害者、精神障害者。1週間ほど前にこの事を知った。私は障害者のことを知らな過ぎる。知らな過ぎることを知った最近である。ソクラテスの言ってた「無知の知」というやつだ。
企業が障害者を採用する。理由は
① 義務だから(○○名に1名は障害者を雇用する事・・・というきまりがある)
② 入札が欲しいから(障害者の雇用をしていると、入札に有利になる)
③ 助成金がついてくるから
俺は、「それでいいのか」って思う。
私は「障害があるからこその優れた面って言うのがあって、そこを活用すれば障害の無い人よりも大きな成果があげられる・・・そんな仕事があるんじゃないか・・・」と最近考えている。
しかし、実態は行政が何らかの強制かアメ(助成金)をつけないと、採用されないという事のようだ。
「資本主義社会」という枠組みの中では、障害者の真の幸せであるとか、人間としての平等であるとか、そういう事は実現不可能なのではないかと思う。
弱い会社がつぶれ、強い会社が勝つ。強い会社は強い人間を働かせ、弱い人間を解雇する。多くの会社は人件費を削減するために、正社員ではなく、契約社員やパートなど、不安定な雇用で会社を運営する。就職するためにも熾烈な競争がある。ある大学生は40社の就職試験にいどみ、40社から内定を受け取る。同じ大学のある大学生は40社の就職試験にいどみ、1社も内定が来ない。大学生(私の例は国立)であってもこのような激烈な競争である。
資本主義社会というのは「競争」が「人間」よりも優先される社会である。
今回の列車の事故にも当てはまると私は見る。
人間以上に大事にされるものがある社会において、障害者が人間として尊重されるというのは絵空事のような気がする。
資本主義社会という枠組みを壊して、人間や命がもっと大切にされ、時間もゆったりと流れ、全ての人間が共存共栄できる社会を目指す必要があるな。
これだけの生産力があるんだから、人間の英知をもってすれば、そこに行き着くのが必然でしょう。あとは、そこまでの時間を短くするために、人生をかけるって事だな。
もちろん俺は、資本主義の次の時代を待つ事無く、優れた人材を障害者の中からも発掘し、正当で平等な評価の中で、私以上の賃金を取らせられるような、そんなプランを考え、実行したいと考えている。
6月末、プランの完成を期待している。A社員、K社員。君たちに期待しているのだよ。
自販機がついた
今日、ホテルシエナに2台の自販機がついた。
一つは清涼飲料。
もう一つはアルコールのものである。
新品が2台だ。搬入にも立ち会ったが、とても楽しかった。あんまり嬉しいので、マニュアルを持って帰って来た。先進の技術っていうのは楽しい。
シエナの自販機は他の多くのホテルの自販機とはちょっと違う。
普通のホテルの2倍以上売れる仕組みを作っている。
ちょっと楽しみだな。利益は薄いけどね。顧客サービスだね。
娘からのはげましに涙
今日は13時ころに激しくつらい事があった。相手の立場が上である事により、私の正論を引っ込めなければならない事態だ。普段はわがまま放題で、正論なら絶対に引っ込めない、相手を叩き潰すまで頑張る私にとっては、言葉にならないほどの虚無感に襲われていた。
私は妻にCメールを打つ。「で」この一文字だ。これは「電話くれ」の意味である。
妻からワンコールが入る。
私がかけなおす。
これは余談になるが、なぜ、このような面倒な事をするかというと、子どもを寝かせている最中などに電話がなると迷惑だからだ。また、妻がかけるよりも、私がかけるほうが通話料が安いのである。
妻とは「疲れた。声を聞こうと思って電話した。用は無い」という話で、1分で話を終えた。
その後に、また電話がなった。妻からだ。
電話を取ると、
「おっとー」
「元気だしてね」
「頑張ってね」
「あいらーびゅー、あいにーじゅー、あいうぉんちゅー、べいべー、じゅてーむ」
もちろん、妻のさしがねだとはわかったが、とめどなく涙がこぼれた。
「じゃ、ママに替わるね」
といって、妻に替わったが、私の様子に気付いた妻は
「あなたって、本当につらい仕事をしてたんだね」と同情されてしまった。
私にとって仕事とは
① 趣味
② 存在意義
③ 生活の糧
である。
趣味だって楽しい時もあれば、超えられないほどの高い壁もあるのだ。
おっとーは社員とその家族のために、そして、私の家族のために、頑張るのだ。
ちなみに、変な英語やフランス語を教えているのは私だ。
早期教育は反対だが、外国の人とも仲良くできる言葉を厳選して教えている。